筒井康隆氏についての…

筒井康隆さんについての情報を中心としたブログです

「新潮社創業120年記念トーク筒井康隆ワールドの過去・現在・未来」」

 行ってきました、la kagu。神楽坂駅出口を上がるとすぐ新潮文庫の「Yonda?パンダ」の看板があり、その向こうに新潮社の倉庫を改装したというla kaguが見えました。受付開始より10分程前に着いたのですが、既に入口外までの列。ちょうどお会いしたアホウドリさんと話しているうちに開場。
 入ってみるとla kaguは、コンクリート打ちっぱなしの壁とシュレッダーにかけられた細い紙片の集積のようなデザインの天井に囲まれた不思議な空間でした。いつもに増してうまくまとめられないのですが、メモを元にざっとレポートします。
 百名ほどが座れるイベントスペースでは筒井さんの署名入り著作が販売。『モナドの領域』『世界はゴ冗談』の単行本2点に、文庫が『虚航船団』『旅のラゴス』『エディプスの恋人』の3点。こちらも長蛇の列で文庫はあっという間に完売。私は『モナドの領域』を買いました。
 19時、司会の方の紹介で筒井さん、佐々木さんが登壇。「今回は新潮社創業120周年記念イベントの初回になります」との佐々木さんの言葉に続き、筒井さんが「今日はようこそ。最近トークショーや対論などの機会が多く、なるべく同じことは話さないようにしている。佐々木さんはゲンロンカフェでの東氏との対論の場にも居たこともあり、これまでとは違う話が出来るのでは」と挨拶。トークショーが始まりました。筒井さんは佐々木さんから送られてきたレジュメはプリントアウトすると9枚もあり、それを見た光子さんから「面白いことを思いついて、それを面白く書いているだけなのに難しい質問が多くて可哀想」という反応があったことを紹介。一気に場が和みました。
 今回は新潮社創業120年イベントということもあり、新潮社刊の作品からの話題が中心。まずは『モナドの領域』から(「・」の部分が佐々木さんから筒井さんへの問いかけです)。
・GODについては何度か語られているので、GODが登場するまでのことを。
上代真一警部は名前がBSニュース上代アナウンサーと「上代真」まで同じ。GODから探偵役として選ばれて登場するが、物語ではその役割を奪われていく。はっきり美男子と表現した。(猟奇事件、美男子という、『聖痕』の主人公・貴夫との共通性)
 最初に思いついたのは腕のかたちをしたバゲッドのみ。大きなパンが人間の腕のかたちだったら面白いと思った。導入部が魅力的だと言われて嬉しい。
・ミステリー風でもあり、違った物語の可能性も不思議ではなかったと思わせる。
 3章からはGODの独壇場となるので1・2章では登場人物を多く出した。
・GODは小説における神=作者、筒井さん自身にも思えるが。
 私というよりも、私が理想とする神の在り方に近い。小説は作者のものだから登場人物全てが私であると言えば言える。GODは奇想天外な発言、行動をするが、どうしたら読者が驚くか、面白がってくれるかを考えていた。そういう意味ではグルーチョ・マルクスではないかと思う。
・『モナドの領域』に限ることではないが、今までの作品との連続性が見られるが。
 意識しなくてもそれまでの作品の要素は入ってくるのかも知れない。『モナドの領域』は法廷場面があるが、それは今まで書いて来なかった。ハヤカワ・ミステリでガードナーのペリー・メイスンシリーズを愛読していたので、いつか法廷場面を描きたかった(『12人の浮かれる男』は陪審員)。
 グルーチョといえば「最悪の接触」の宇宙人(ケララ)がメチャクチャでグルーチョそのものとも言える。「ジーザス・クライスト・トリックスター」を書いた時にはイエス・キリストについての本を遠藤周作をはじめ多く読んだが、応用して書いていない。長い時間をかけてGODが生まれたという意味では書き終えた後、GODの萌芽が生まれたのかも知れない。
・GODが驚かせたり笑わせたりするというグルーチョ・マルクスではないかという話はシリアスな存在ではと捉えてしまう考え方と逆で興味深い。GODという存在についてはゲンロンでのイベントでも語られてきたが。
 人間が存在し生きている。世界が精緻である。その世界の頂点に人間がいる。これが進化の偶然の結果だとしたらその偶然を決定したのは誰か。何かの意思があってこうなったのだとしか思えないことがある。私はカトリックの幼稚園、プロテスタント同志社大学で学び、神へのアプローチは身近なところにあった。ただ私が『モナドの領域』で描いたGODは宗教上の神ではない。どこかで見ている存在。トマス・アクィナス神学大全』など哲学での神を描いた。そしてそれを書けば小説にとって最後のテーマだと思った。GODがシリアスなのではという指摘については『モナドの領域』は骨格はエンタメなので難しいと思う部分は飛ばしてもいいから楽しんで読んでもらいたいと思う。
・終りのほうには論理式も登場するが。
 「新潮」掲載時、朝日ネットの会議室「221情報局」で哲学者の青山拓央氏から誤りを指摘されたが、印刷上のミスだった。『モナドの領域』は楽しみながら書いたが、どこかで見ているであろうあの方がどう思っているか。私の「死にかた」を見ておいてください。
・「いつもどこかで見られている」という思いは。
 エディプス・コンプレックス、恐怖の芯としてあるかも知れない。
・この世界を創造してきたものとして「人間原理」「インテリジェントデザイン」という考え方があるが、『モナドの領域』はGODとして現れて説明し証明するのが痛快だった。
 GODを描くことは最終的なテーマで、これ以降は書くものがない。
・青山BCでの対論の際、パラフィクションを十年くらいかけて書いてみようと筒井さんがおっしゃられ、その後時間を待たず「メタパラの七・五人」、そして『モナドの領域』が書かれたことについて。
 読者までをフィクションに取り込むパラフィクションというものを長篇で考えた時に全体がパラフィクションというのは出来ないなと思った。『モナドの領域』のSF評論家のあの場面、読者が意識した時にパラフィクションの綻びが出来る。その綻びから裏返してしまえば、もう全てがパラフィクションになっているのではないかと思う。
・その通りだと思います。作者が作品の中に鏡を仕掛け読んでいる読者が作品の中に自分の姿を見る時、その一瞬の転換によって、その作品はパラフィクションになる。
 『モナドの領域』についてはこれくらいで…ということで、休憩かと思われましたが、トークはそのまま後半へ(続きます。すみません…)。