筒井康隆氏についての…

筒井康隆さんについての情報を中心としたブログです

文学インタヴュー第7回 筒井康隆 (〈現代作家アーカイブ〉by飯田橋文学会)

 動画公開も控えており、また「文學界」新年号にも掲載されるということなので、簡単にレポートします。相変わらずぐちゃぐちゃのメモからです。すみません。
 筒井さん、都甲さんが紹介される中、滑り込みで既に満杯の会場へ。横に長い教室の後ろのほうで空いていた席につきました。
 最初に都甲さんから今回のイベントの説明。筒井さんから課題図書として『日本以外全部沈没』『虚人たち』(と『着想の技術』)『世界はゴ冗談』(特に「ペニスに命中」)が挙げられたこと。それについての読書会も実施され、その参加者ほか一般の方も招いての「飯田橋文学会」主催の文学インタビューであることが話され、丁度今がノーベル文学賞の発表時期であることに触れたのち、筒井康隆さんは虚構性を前面に押し出し、日本文学を先導・牽引してこられ、今なお第一線にある、ノーベル文学賞に相応しい作家だと思っていると語られました。そして『日本以外全部沈没』は40年以上前に書かれたとは思えないほど斬新で面白い。収録作「農協月へ行く」は農協がある意味下品の象徴のように描かれ、それでいて異星人との接触に成功するという、最後に持ち上げるという作品となっている。そういう設定が多い作品集だが、どうしてそのような描き方をされるのかと問いかけました。
 筒井さんは「今日はようこそ。ようやく挨拶が出来る」と場を和ませた後、ノーベル賞は自分は取れない。エンタテインメントを書いている作家は受賞しないと言われ、ついで都甲さんの問いに応えました(以降「・」が都甲さん部分です)。
・「農協 月へ行く」前半部の農協の描写について
 農協に限らず、大阪人など否定も肯定もせず、面白がっている。労働者、エリート、マスコミ、知識人、アフリカ人等々、あらゆる人を面白がるというのが自分の姿勢。集団として描く時はより誇張・デフォルメして描く。普通にありのまま描写するのではなく、却ってリアリティが生まれる。
・農協を一旦下げておいて後で持ち上げるという描写は
 一旦持ち上げて下げる、またその逆もマスコミがやっていること。
・今回の読書会で参加者の中には最初のほうの農協を面白がる描写に拒否感を覚えるという者もいたが。
 都甲さんの言う「下げる」表現は、先入観に訴えて物語に入りやすくしている。
・誰もを面白がることですべてが平等に感じられるということ。
 先ほどと同じ答え、あらゆる人を面白がるというのが自分の姿勢ということになる。ただ「農協 月へ行く」の場合はオチの意外性として農協以外を持ち上げてはいない。
・『虚人たち』について。「海」の塙嘉彦編集長の影響が強いと書かれているが。
 塙さんからは多くの刺戟を受けたが、塙さんに限らず、親しくした編集者、あるいは喧嘩をしたひとからも何らかの影響は受けている。
ラテンアメリカ文学の影響は
 自作のスペイン語の翻訳が何冊か出ているが、ラテンアメリカ圏で読んでもらえるのは嬉しい。ラテンアメリカの多くの作家・作品から影響を受けた。いくつか挙げれば、コルタサルは虚構と現実の描き方(虚構と現実が闘い、虚構が勝利する)。カルペンティエールの「時との戦い」という作品もある。マルケスは『族長の秋』のシュールレアリズムが素晴しい。リョサもそうだが若い頃にSFを読んでいて素養があり、マドリッドなどでシュールレアリズムの洗礼を受け、故国に帰り、マジックリアリズムそのものの世界を描いている。またそれ以前に読んでいたカフカの不条理感覚も『虚人たち』には入っている。
・『虚人たち』は読んでいて、主人公が娘や妻を何度も助けられなかったり、優先順位がおかしくなったり、カフカの『審判』を読んでいる時と同じような印象を持った。中南米文学の場合、「現実=シュールレアリズム 虚構=自然」という図式があるが、『虚人たち』はまさに日本の中南米文学。
 『虚人たち』では娘や妻が危機に陥っている際に立ち向かっていっても敵わない主人公や、父の横暴を多く書いているが、現代では父は息子の反抗を恐れるだろうし、妻や娘が襲われても相手の男を殺そうという男性は少ないのではないか。日本社会における男性の権威も批判している。
・妻や娘にかけよって助けようとしても叶わない描写が何度も出て来る。
 くりかえしの技法の一つ。『着想の技術』内「虚構と現実」「時間」の章で書いている(虚構内の時間が何度でも繰り返す)。また白紙の頁は主人公の意識がないという表現で、小説の中では通常省略される部分を書いている(原稿用紙一枚が一分という設定)。フィクションのフィクション的部分への批判(省略されているのは読み手の時間)。
・小説における省略。例えば「さて次の日」という表現や排泄や睡眠の描写がない等への批判として『虚人たち』は書かれているが、読む側はそれこそ自分のペースで読んでいたりする(読み手の自由)。
 『虚人たち』には字が滲んで読めないという描写もあり、何が書かれているかわからない、フィクションのいい加減さも書いている。
・通常言われるようなリアリズムに対する批判もあり、舞台のセットの裏側を見ているような落ち着かない感じがある。佐々木敦氏の『あなたは今この文章を読んでいる』で描かれた、メタフィクションからパラフィクション、フィクションであることを読者が意識するということ以上に、自分がある種演劇空間にいるような、読んでいて不安感がある。
 自分は喜劇役者になりたかったがなれず、SFという手法でドタバタ喜劇を書き始めた。文章を書くうえで演技経験が役立った。自分で喜劇を演じる、「おれ」によるドタバタ小説が生まれ、その後「おれ」では書けない小説も書き始めた。
メタフィクションは読んで行くうちに外側にいる筈の読み手が小説の内部にいるのかわからなくなってくる。現実と非現実の挟間がなく、自分という存在が揺るがされている。
 不安感というよりも良識・常識によって立つ処を揺るがせるのが文学の使命。ほかのメディアには難しい、文学の長所。主人公が悪人であっても感情移入させられれば悪を描ける。
・現在のマスコミは常識的で、読者一人ひとりの心の中に見えない検閲官の存在を感じている。検閲の恐怖を寓話で描いたクッツエーを想起する。複雑なメタフィクションは道徳的な検閲から逃れる方法の一つでは。
 私という人間が存在している以上、現実は介入して来る。それを逆にしたのがメタフィクション。現実をメタフィクションとして逆転することで笑いが生まれ、社会批判となる。
・『着想の技術』で田中小実昌さんの表現をひきながら「虚構を描けば描くほど現実に近くなる」といった表現があるが。
 田中小実昌氏は私と正反対だが氏の哲学小説は好き、また『モナドは窓がない』という著作もあり、似ているところもある(知っている限り、書名に「モナド」が入るのは『モナドの領域』と『モナドは窓がない』のみ)。他にも小島信夫氏も私とは全く異なるが、好きな作品がある。
※続いて「ペニスに命中」に入りますが、今日はここまで。うまく繋がらない部分有り。すみません。