筒井康隆氏についての…

筒井康隆さんについての情報を中心としたブログです

「小松左京とSF蜜月時代」レポートその2

小松左京展」オープニング記念対談 筒井康隆×豊田有恒小松左京とSF蜜月時代」

 レポートその2です。
 SF蜜月時代、SF作家が集まっては夜な夜な騒いでいた。半村良氏が結婚した際、宿泊先のホテルに大挙して押し寄せ「初夜権を寄こせ」など言ったりしていた。SF作家の結婚が続いたことがあり、しばらく結婚の話がないと、星さんが 伊藤典夫氏に 「結婚の禁断症状」だから早く結婚せよと言ったりしていた。
 「どうしても思い出話に終始してしまうが」と筒井さん。小松さんが光文社から『日本アパッチ族』を第一長篇として書き下ろしで出したとき(全五段の新聞広告も出た)、小松さんの最初の長篇は早川書房でと思っていた福島正実氏が怒ってしまい、その後、小松さんに福島氏から長い長い手紙が来た。小松さんは同じ年に『復活の日』を早川書房から書き下ろしで刊行した。
 豊田さん。小松さんは資料を集め、あらゆることを調べ、作品にしていた。私も同じような書き方をするが、どうしても資料が作品の裏側に垣間みえてしまう。小松さんのすごいところはそれを感じさせないこと。背後には山のような資料と知識と思索がある。
 筒井さん。今回の展示された大量の創作メモには圧倒された(『日本沈没』のために描かれた詳細な地図など)。私はほとんど創作ノートを作らない(『文学部唯野教授』のときに大学教授からの取材を記したものくらい)。あの膨大な創作メモから、身体とは正反対の小さな文字で原稿が書かれている、と豊田さん。
 筒井さん。展覧会図録にも書いたが、小松さんは哲学ではフッサールを学んでいて、私自身は小松さんの弟子のような存在なので、哲学でもフッサールの弟子のハイデガーを選んだ(後年『誰にもわかるハイデガー』を出した)。そういう意味でも小松さんは私の師匠である。
 豊田さん。小松さんには教わったことも多いが、紹介された人も多い。シンポジウムや座談会に呼んでもらって、執筆で疑問点が生まれたときにたずねられる専門家も多く知った(人脈をつくるのにもすぐれた人だった)。
 筒井さん。京大でも高橋和巳福田紀一といった友人が多くいた。高橋和巳の早い死は相当悲しく淋しかったんだと思う。
 筒井さん。小松さんとはいろんな思い出があるが、知らない側面も多い。『星新一』の著者・最相葉月さんのように各方面で取材をし、一冊の評伝をまとめてほしいと思う。
 豊田さん。万国博覧会ひとつをとってみても立ち会っていないのでわからないことが多い。
 筒井さん。展示で万博の資料を見たが、クレームが来た場合の対応なども事前に入念に考えていることに驚く。事業力、イベント力のようなものがあった、と豊田さん。
 筒井さん。小松さんが日本SF作家クラブ会長だったとき事務局長だったが、大変だった。国際SFシンポジウム(1970)も束ねる力がすごい小松さんだから出来たこと。
 豊田さん。SFシンポジウムでも深見弾氏を通じて、ソ連のSF作家に多くの作家と交流させるなど、小松さんの親分肌を感じることも多くあった。
 筒井さん。SFシンポジウムの星さん、海外作家に「亡命しろ亡命しろ」と言って、通訳に翻訳しないでいいと止めるのが大変だった。
 ほか、工場長をつとめていた父の事業が厳しくなったときの苦労話、手塚治虫さんとのアニメーションの逸話があって、ふたたび星さんのジョークの話に。
 SFシンポジウム、海外作家が少ないのではという話になったとき、星さんが「赤坂に行って不良外人を2、3人連れてくればいいんだ」「旦那、いいシンポジウムがありますぜ」って。
 筒井さん。めちゃくちゃな川柳、合成ことわざなどもよくやった。星さんの有名なところでは「命短し襷に長し」「弘法も木から落ちる」「猿も筆の誤り」。
 筒井さん。Twitterでは日々炎上があるが、あの比ではないだろう。ただあの時代であればこそということ。
 SF作家での麻雀の話。点数計算が出来るのは石川喬司さんと豊田さんだけだった。筒井さんは酔っぱらったような手をつくるのでみな面食らっていた。逆に眉村卓さんは実直な麻雀。
 筒井さん。星さんはショートショートの原稿料を一枚いくらから一篇いくらと交渉してくれてずいぶんと他のSF作家は助かった。SF=ショートショートという時代があり、資質にあわなくても書かされた。
 豊田さん。小松さんは原稿を書いて、取材に出かけ、また原稿を書くという生活だったが、星さんはある時期からテレビなどには出なくなった。なぜですかと聞いたら「テレビ東京に出ると名誉欲が満たされてしまい、作品が書けなくなる」ということだった。
 筒井さん。小松さんは最初のころラジオでも多くの台本を書いたり出演していた。ラジオ大阪の番組では桂米朝さんを紹介してもらった。あるとき小松さんの紹介でラジオでの喜劇台本を書いたが、人情喜劇の番組でドタバタ喜劇を書いたものだから、プロデューサーに「筒井さんは喜劇というものをおわかりなんですか」などと言われ、結局小松さんにあとを引き受けてもらった(その後小松さんは原稿料を半分くれた)。
 豊田さん。本当に面倒見がよく、人とのつながりを大切にする方だった。梅棹忠夫氏を紹介してもらって本当にありがたかった。
 筒井さん。小松さんに桂米朝さんを紹介してもらって、親しくおつきあいさせてもらい、共著『対談 笑いの世界』も出すことが出来た。私は親しい作家は少ないが、小松さんと米朝さんで充分だった。
 時間があっという間に過ぎ、そろそろ……というので、最後におふたりから。
 筒井さん。小松さんには本当にお世話になった。教わったことが山ほどあり、ギャグも知識も吸収させていただいた。親分であり先輩であり教師だった。先ほども話したが、小松さんのことでも知らない部分は多くあり、誰か各方面で取材をし、評伝をまとめてほしいと思う。その際は可能な限り協力する。
 豊田さん。『日本沈没』のころ、プレートテクトニクス理論をわかりやすく教えてもらった。まだ誰も知らない最新科学の通訳でもあった。
 万雷の拍手のなかおふたりが退場。伝説の時代の逸話を聞くことができて幸せでした。
 筒井さん、豊田さん、小松左京展に携わった皆さん、世田谷文学館の皆さん、そして小松さん、ありがとうございました。